城山を公園に
河畔倶楽部と城山公園とは生まれも育ちも同じであると言っても過言ではあるまい。昭和26年8月、河畔倶楽部が発足してから4か月が経った暑い盆過ぎの定例会での発議である。それは城山を村民(合併前である)の憩いの場として建設設備をしようというものである。その具体的な施策は、
①城山一帯に桜を植えて公園化する。
②城山下の廃河川敷を利用して鯉の里づくりをする。
③同じく廃河川敷を利用して人工真珠の養殖をする。
というものであった。
城山一帯に桜を植えて公園化することについては、旧公設グランドの桜の下で杯に浮かべた花びらで豪語し合うメンバーの気性を誘い桜の公園を以前から共に夢見た事でもあった。法勝寺城、別名尾崎城といわれ毛利居城の跡でもあり将来是非とも村民の憩いの場にふさわしい公園にしようとしたのである。
城山下の廃河川敷を利用して鯉の里づくりをする。これは今でこそ地方の時代魅力ある地域づくりと賑わっているが、その昔法勝寺は“鯉に焼物、西条柿”と言われた三大名物ガアリ、焼き物は現在も三代ガ法勝寺焼きを伝承しているものの、鯉と西条柿はその陰が薄くなっている時であり、鯉の名所の再興を計ったのである。
真珠の養殖については、本村は以前からこれといった特産物が無かったので、産業振興をしようと新しい技術で真珠の養殖を試みようというものである。
鯉の里づくりと真珠の養殖は、かなり調査研究を重ね、資金融資までして実行しようとしたが、結果的には実現しなかった。後で触れるがこの廃河川敷に県営プールを誘致しようと努力するのである。
早速城山一帯の現地調査を重ねるが、とても公園になるシロモノではなかったことを記載している。それは、そもそも一帯が冥仙藪といって昼でも薄暗く白い大蛇が棲んでいて幽霊が出没するといわれ地域の住民から気味悪がられていた。今でこそ中学生が休憩時間に気軽に城山に登っては法勝寺一円を見下ろし大志を抱いているが、当時はとても考えられない事であった。
そこに昭和28年1月5日というから正月のお屠蘇気分の覚めない寒風の吹く日に皆弁当持参で第1斧を入れたのである。それから冥仙藪との戦いが始まったのである。藪を整理することは地主の了解がとれたものの桜の植栽となると他人の土地では困るわけであり、当時の所有者内田貞知氏(内田玄教氏の子息)に交渉し、村に譲り渡してもらうよう相方の交渉を行ったのである。そして昭和28年2月25日内田氏より鴨部の字古城という土地は村に移管となるのであった。
こうして何の気兼ねもなしに充分な労力奉仕が出来るようになり毎月といってよい程会員全員による山道普請、竹根の掘り返し、草刈、清掃など手弁当持ちの1日奉仕が始まったのである。(ここで設営しておくが、労力奉仕は会員本人が欠席の場合は家族の誰かが代わって出役するという掟があり今日もそれは引き継がれている)
幾度となく奉仕を重ねる度に少しずつではあるが、本丸、二の丸が美しい姿を現してくるのであった。汗と涙に濡れながら、たまに観光協会からの差入れの酒の味がことのほかおいしかったと記している。将来の城山公園を共に夢見て車座になって飲んだ酒の勢いを借りてこんな即興の”河畔倶楽部音頭”まで出ている。
♪ わたしゃ城山夕紅葉
あなたまた倶楽部の鴬よ
紅葉の染まるを待ちかねて
青葉のうちから通うてくる ♪
こうして整地を終えたところから桜と楓を植えていったのである。河畔倶楽部の一致団結した地域を良くしていこうとする取組が、次第に住民にも浸透してきた。昭和28年には城山山頂にあずま屋を建設してくれないかと町、観光協会より要請があったが、会員も金銭的には十分ではなかったので労力奉仕で建設することを約束し後に実現している。
昭和30年までにおおむねの整備が終わり、城山らしい本丸、二の丸に桜の花も少しずつではあるが小さな蕾をつけるようになった。そして河畔倶楽部の夢も少しずつ開いていくのであった。それからは春と秋の年2回の労力奉仕が定例となり法勝寺第二公園として妙見山開発に取りかかる昭和45年までの19年間の汗と涙の結晶が今日の城山公園となったのである。
途中昭和40年に新城山整備計画を樹立し、テニスコートに通ずる道路の整備と配電計画を町に具申し一層充実した公園となったのである。